
〜壱百、百〜
上板町の和泉寺の近くで、ほたる米の刈り取りがあり、子どもたちも参加するというので見に行った。昔ならありふれた風景であるが、稲の刈り取り作業を見かけないので、珍しいのである。最近は、刈り取り作業は機械でするので風情はないが、手で刈り取り、いわゆるハゼに架ける、あるいは架けられた稲を見るのは、阿波弁では、えっとぶりであった。
子どもたちが珍しがってモタモタしているのはわずかであり、要領のよい子どもはすぐに慣れて、大人と比べることはできないが、それなりにうまいものである。刈ると横に置き、いくつかを一束にして、更に、それをハゼに架けるのである。この風景はある一定年齢以上の人には懐かしいものだ。
私は、しばらくするとちょっと退屈したので和泉寺にお参りした。本堂の前の石柱に記されている寄付金額を見て、軽い驚きと感動を覚えた。昔の職業柄、どうしても数字には目が留まる。和数字やその略数字、また、洋数字など神社や寺の玉垣を見ているだけで飽きることはない。右上写真の石柱は実に珍しいのである。
和数字は、一二三四五六七八九拾であるので、洋数字の0 1 2 3 4 5 6 7 8 9とは趣が異なる。洋数字の10は1×10、20は2×10である。比較する和数字は、10になって新しい拾(あるいは十)が記号として導入。まず拾があり、次は二つ目の拾で2×拾、1回目には拾が1回目である事を殊更言わない。
十円や百円の類は一(壱、あるいは壹)拾円、一百円のような表記はしない。だが、1,000円は、千円も一千円もある。一万円は、万円と言うのは珍しい。千の位を境目として、数字であるか否かが分かりにくくなるからだと推測される。万は数字の、まん、であるか、よろず、であるかが間違う可能性がある。
数字の万は、数字であることを強調する、あるいは、数字であることを伝えるために、あえて一を付けて一万円と言えば間違いが起こらない生活の知恵であった。最近は和洋混じった表記もあり、玉垣・石柱はいつまでも見飽きない。
(上板町の和泉寺の石柱)
徳島広域消費者協会 顧問 三原茂雄