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 生活者の視点で、わかりやすい情報を基本とし、法律や経済、くらしの様々な有益な情報をコラムとして、学識経験者や専門的な分野で活躍する方々に寄稿していただいたものを掲載しています。

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ベニヤ板                   2009/Vol.21
 今、私は大きな洞窟の入口に立っている。
 長さ40メートル、崩れ落ちた大小様々の岩片が洞窟の底を蓋っている。周囲も全く荒れ果てている。これが、太平洋戦争(1941〜1945)の末期に日本軍が最後の足掻(あが)きを見せた「震洋」という秘密兵器の特攻基地の名残りであった。
 牟岐線阿波赤石駅から徒歩約30分の金磯海岸にある。
 実は、数日前にテレビで震洋特攻隊の全容の放映を視聴した。緑色に塗られた長さ5メートルのモーターボートで、粗末なエンジンの前部に爆薬をつめてある。一人で運転して敵の軍艦に体当たりして爆沈すべく作られた自爆兵器なのである。驚くべきは、舟のすべてはベニヤ板で作られていたことである。
 飛行機の新しい攻法が戦争の中心になってきた当時の戦争で、わが国も急遽人と物の泥縄に着手したが、人の養成より物の生産が追いつかなかった。予科練(海軍飛行予科練習生)2,500名には乗る飛行機がなかった。
 彼等の行き先は、この震洋だったのである。
 その出撃の練習がなされたのがこの洞窟基地であった。因(ちなみ)に予科練生の多くは、比島へ移動したが、その殆どは出撃前に空爆され、実際に出撃したのは、2・3隻と聞いている。
 それについて思い出すのは、私の軍隊当時の思い出である。
 私が太平洋戦争の最後の年である昭和20年に徳島連隊に居た時のことである。連合軍がいつ本土に上陸してもおかしくない時期であった。上陸してくる敵の軍隊は、戦車を先頭に進撃してくるであろう。それに対応する兵器は何もなかった。明治38年作の38式歩兵銃と昭和7年作の92式重機関銃6器だけであった。外に戦車が1台あった。
 驚くべくは、これもすべてベニヤ板製であった。ベニヤ板で本物の戦車そっくりに作った代物で、その前面の左右に縄をつけて各を10人の兵隊が「ワッショイ ワッショイ」の掛け声と共に戦車を引っ張るのである。時速50メートル位であろうか。戦車の少し前で、先に模擬の爆弾の小さい木片を付けた竹の棒を肩にした兵士が、走り出てその棒を戦車のキャタピラの前に置くのである。
 教官が「戦車爆破 成功」と叫ぶ
 「情況終り」
 戦車は、縄と人力によって元の位置へかえる。これを繰り返して一日の演習は終りを告げるのである。
 太平洋戦争は、当時の軍上層部が、我が国が負けるのを知っていながら、只面目だけで起こし、国民に取返しのつかない大きな負担をかけた戦争である。我々旧兵士には、捕虜になったら自決すべしと、その方法まで細かく指導し、指導を受けた多くの兵隊は騙されて死んだ。
 当の軍上層部の大部分は、よう自決し得なかった。ベニヤで軍艦や戦車に向かうべく訓練を受け、何人が戦死させられたであろう。今更乍ら、指導部の卑怯さを思うと共に、戦争の悲惨さ無意味さを思う日々である。
   
                     シルバー大学校南部校OB連合会長 片山 文夫

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